とても美しい人が着たドレス

 

平成が終わる。平成って何かわかりますか。私には分からない。この時代に、「平成」と名がついているらしい。誰も意味を知らない時代が、終わるのですよ、と地球に声をかけたら、俺にとっては平成という季節だ、と返された。私は、てっきりもっと短い単位に思っていると予想していたから、案外、と思った

 

そういえば、平成が終わるのは初めてらしい。地球ができてから46億年、この46億年の中で一度も終わったことのなかった時代が終わろうとしている。

 

100歳まで生きたいと思っている。正確に言うと、103歳まで生きたいと思っている。生きれると思っている。犯罪に巻き込まれるとか、地震が起きるとか、地球が滅びるとか、文明が崩壊するとか、宇宙人が攻めてくるとか、怖いことは本当にたくさんあるけれど、自分だけは生き延びるだろうと思っている。想像力が足りない頭に、銃を持ったことのある子どもたちが石を投げる。

 

世紀を跨ぎたいと思っている。どうやら小さい頃、2000年と2001年を跨いだことがあるみたいだが、当時は3歳なのでもちろん記憶はない。一番古い記憶は年少のときの保育園の部屋で、ワタルと座っていた茶色の床だ。ワタルはいつもランニングシャツに短パンで、子どもながらに、キャラ作り乙と思っていた。

 

世紀を跨ぎたいと思ってるんですよ、もう一度。どんな感覚なんでしょう。形式的な性格だから、なんかワクワクするんでしょう。今ないテクノロジーがその時にはあって、若者はすごくなる。列車は、先に生まれた我々のいる駅を通り過ぎて、終点を避けるために走り続ける。

 

平成が終わる瞬間に、21世紀が終わる瞬間に立ち会うには、①生きていて②起きている、ことが大切だと思う。その瞬間、みんなはどうしているのだろう?偶然にも平成の終わりは、私にとって最後の大学生活の年として縁がある。どうせワーとか叫んで終わるだろう、何かおもしろい(と自分が思うこと)をしてそんなにおもしろくないだろう、でも、その瞬間を大切にしたい、気が、する。

 

今まで、気恥ずかしくてできるだけ写真を撮られないようにしてきた。その場所にいて写真に誘われない場合悲しいし、その場所にいて気を使っていただき写真に寄せてもらうのも性格的につらい。だからカメラのない場所を選んで息をしていた。監督のような表情で柔和に見つめた空間は、選手として激烈に笑いたかった空間だった。足は動かないまま、砂時計の砂は落ちきった。そのたびに後から振り返って何をしていたのだろうと、また砂時計をひっくり返した。

 

形式的な性格でよかったのかもしれない。1度でもスイッチを入れられる機会があるなら、十分に幸せと言えるだろう。

 

21世紀の終わりに私はどこから22世紀の始まりを見つめるのだろう。

 

21世紀の終わりにマーシャル・D・ティーチがしなさそうなこと

桃を植える